坂元ひろ子「現中学会『七十にして』の『反思』」への強い違和感
松田康博
『日本現代中国学会ニューズレター』(第63号 2021年5月31日)が送られてきた時、標題にある元理事長の坂元ひろ子一橋大学名誉教授が書かれた巻頭言を読んで、強い違和感を覚えた。全文はここで見ることができる(http://www.genchugakkai.com/archive/newsletter/jamcs_n_63.pdf)。
私は20数年前から現中学会の会員であり、何度も報告をしたり、コメンテーターもしたりしているし、自分の学生にも入会を勧めている。運営にも少しだけ関わったことがある。いたって普通の一会員に過ぎない。
坂元先生は、近現代中国思想文化史のご専門で、ジェンダー研究にお詳しい。政治学を学んだ私とも、権力構造を見ていく点において共有する部分があるものの、直接的にご一緒に研究したり、議論したりすることは、これまでなかった。ただし、今回は元理事長として、学会の70周年を記念した巻頭言に書かれたことであり、若手研究者もこれを読んでしまったのかと思うと、このまま放置することもできないという気になってしまった。
以下、違和感を覚えた点を挙げておこう。失礼があればお許しいただきたいし、間違いがあれば、訂正や反論を歓迎したい。
第1点は、坂元先生が、一面的に「中国嫌悪」のみを延々と嘆き、批判しているだけで、その原因の一部となった中国の言動に一切触れず、批判もしていないことである。ここで取り上げられる「反知性的『中国嫌悪』」は、具体例が指摘されていないが、中国関係者であれば、だいたい想像がつく。しかし、中国の行動については、「天安門事件」、「尖閣諸島問題」と単に羅列されているだけである。それどころか、香港、新疆、チベット、台湾にいたっては、言及さえなされていない。
坂元先生が想定する「日本」とは、中国がどのような行動をとろうとも、無条件に中国を好きにならなければならない義務でも課されている国なのであろうか。日中関係に限らず、どのバイラテラルな関係も、相互作用・相互批判によって成り立っている。他方日本側の問題は、「中国嫌悪」、「歴史教育」「加害者意識の欠如」、「戦後賠償の欠如」、「遺棄化学兵器」といくつも並んでいる。いちいちごもっともではあるが、あまりにもバランスが悪すぎないだろうか。
第2に、坂元先生は、「中国人留学生に依存して経営のなりたつ大学さえあるなか、『中国嫌悪』が何を結果することになるのか言をまたない。研究者のほうでも、『中国嫌悪』にのって、あるいはそれを隠さない政府への忖度からもそれに逆らいがたく、必要以上に中国政府への一方的批判言説を強めかねない」という。留学生と大学経営を結びつけたことには、驚きを禁じ得ない。「中国嫌悪」は、大学経営のため、有り体に言えば中国人留学生に敬遠されないようにするためなくすべきものなのだろうか。また、大学経営に依存していない国からの留学生に対しては「嫌悪」を解消する必要はないのだろうか。そして多様なバックグラウンドを持つ我々中国研究者とは、「中国嫌悪」を隠さない日本政府を忖度して、必要以上に中国政府への一方的言説を強めかねない人々なのであろうか。これが、現中学会会員へのメッセージなのだろうか。
私は違うと思う。不当で一面的で根拠のない「中国嫌悪」は、大学経営に関係なく、批判されるべきだと思う。何よりも、中国人留学生をレイシストによる理不尽な「中国嫌悪」から守るのが我々大学教員の務めである。同時に、留学生達に中国国内では得られないかもしれない知識や、考え方や、議論の仕方を伝えたり、中国国内では知らされない中国の姿やイメージを伝えたりすることも我々教員の重要な務めである。「なぜ中国が(一部とはいえ)世界で嫌われてしまっているのか。なぜ中国国内でそのことに一方的な解説しかなされないのか」ということを、中国の外で解説するだけで、留学生は多くのことが理解できるようになる。中国の未来のために、これは必要なプロセスである。この課題を避けていたら日中交流にならないだろう。
中国研究者は、日本政府を忖度しているのだろうか。それとも中国政府を忖度しているのであろうか。私はそのような現象があるとしたら、どちらもゆゆしき問題であると思う。後者については、すでにかなりの批判がなされている。なぜ、坂元先生は、(あるかどうかわからない)日本政府への忖度のみを取り上げ、(実際にあると言われる)中国政府への忖度を取り上げないのであろうか(そしてその批判に反論しないのであろうか)。こうした問題の取り上げ方自体が中国政府への忖度であるという印象を与え、中国専門家への批判を強める結果になってしまう危険性に、坂元先生はお気づきにならないのだろうか。
第3点は、複合的視点による構造的弱者への目線が欠如していることである。坂元先生はさらに続ける。「そして悪いことに、『中国嫌悪』は右翼系メディアが大歓迎するなか、中国で被害経験をもつ一部の脱中国者らによっても増幅されさえしている」という。言うまでもなく、「中国で被害経験を持つ脱中国者」が、人権侵害をした中国政府を批判するのは構造的弱者として極めて当たり前である。やむなく外国に流れ着いたかれらに、「理性的」に、「中立的」な言語で、「反中的でないメディア」を選んで、「おとなしく」語れ、とでもいうのであろうか。それでは典型的なトーン・ポリーシングになってしまう。もちろん、「構造的弱者」が、同時に別の軸において権力構造に加担し、他者を傷つける「共犯者」となってしまう事もあるが、まずその「被害経験を持つ脱中国者」の声の矮小化に繋がらないか、注意しなければならないのではないか。
坂元先生は「中国政府の『反民主』『人権侵害』に対する自らの批判を絶対化し、恣意的かつ独善的に「反中」「親中」を色分けし、承認欲をみたしてくれない日本の研究者や出版社にも中傷、嫌がらせを行いさえする」という。これも全く理解できないわけではないし、おそらく辛い経験をされたのではないかと察するが、日本の国立大学の日本出身の教員と、国外に亡命している中国人と、どちらが構造的強者でどちらが弱者か、少し考えてみてはいかがだろうか。むしろ、坂元先生が傷を受けた人の言葉に耳を傾けず、無意識に拒絶している可能性はないのだろうか。
坂元先生は、「それに対して、『正義』を掲げ、日本のかかえる数々の『反民主』『人権侵害』問題はさしおいて、『上から目線』で同調する日本人もいるが、それが『良識』といえるのか?」と続ける。私は、日本で人権を抑圧する側の人が、中国の人権問題を批判することで自身の加害性をウォッシングし、二項対立的な「先進的な我々日本」対「後進的かれら中国」と規定する人を、疑問符をつけることなしに良識ある人ではないと思う。ただし、坂元先生には、なぜ亡命中国人の多くが結局そういう人々の所に行かざるを得なくなるのか、という構造を問うて欲しい。
この構造は、かつて戒厳令下の台湾からの亡命者に、日本の左翼が極めて冷たく、かれらが右翼を頼るしかなかった構造と酷似している。日本のインテリは戒厳令下の台湾から亡命し、救いを求める人達をキワモノ扱いして無視していた。あなたが/私が耳を傾けないから、かれらは「良識のない人」を頼るしかなくなっているのではないのか。この構造の形成に、あなたは/私は、全く責任がないのか。坂本先生に、亡命する必要もない日本の市民として学者をしている我々が、そのような構造に加担してしまうことがいつでもあり得るという危険性に、意識を向けていただくことはできないだろうか。
第4に、「招聘された日本からの研究者が事情不明のまま中国に拘留されることがあいついだこともあり、自らも中国行きを控え、学生にも勧められない、当分は交流をみあわせるといった反応もでてきていて、危機感を強くした」とあるが、この「危機感」は一体どちらに向いているのかと首をかしげた。残念ながら中国において、「国家安全」の名の下にいつでも誰でも拘束するのが常態となってしまっているが、それが近年、より多くの外国人・在外華人等にも及ぶようになった。坂元先生の念頭にあるのは、こうした中国の変化への危機感ではなく、「研究者・学生の交流は知る限りにおいて、中国の研究者も強く望んでいるとのことであり、なんとしても途絶えさせてはならないと思う」とあるように、交流が途絶える事への危機感「のみ」だと読めてしまう。もし本当にそうだとしたら、その感覚には絶句してしまう。拘束された方々のご家族がどのような辛い思いをされているか、全く気にしていないという印象さえ与えてしまっているのだ。
坂元先生の頭にある「日本」には、誰かが拘束されても気にせず中国と交流をしなければならない義務でもあるのだろうか。まさかそんなことはないだろう。もちろん国際交流が止まってしまうことは極めて重大な問題であるが、国際情勢を判断した臨機応変な個々の対応を一面的に否定しかねないその視点について、疑問を呈しておきたい。
むしろ、坂元先生には、日本における中国研究の重鎮として、「訪問者をみだりに拘束するようなことをしていたら、対外交流が途絶えてしまいますよ」というメッセージを是非中国当局に伝えて欲しい。懸念すべき対象は、中国の不当な拘束によって不利益を受ける研究者や学生の反応ではなく、そのような反応を呼び起こしている中国当局だと思うからだ。
第5に、この巻頭言が、現中学会の過去70年の「反思」(省察、反省)になっていないことである。全篇において現中学会の過去は放置され、単なる他者批判で終わっている。学会は、基本的に研究者個人の集まりであるが、多くの会員が中国の公式見解や説明を鵜呑みにして文化大革命の本質を見誤ったという過去もある。せっかくの70周年記念である。中国との関わりにおいて、過去の現中学会の主要メンバーの中国観を反省することをやってもよかったのではないか。それなのに、坂元先生は学会の過去への自省抜きに「中国『脅威』論」と「中国崩壊論」を揶揄するのみである。現中学会に代表される日本の中国研究の70年を「反思」する上で、あまりにバランスが悪くないだろうか。
実は、坂元先生が書かれていることは、それぞれ部分だけを見れば、自分でも思ったり、言ったりしたことがある。私も、日本における「反知性的『中国嫌悪』」には辟易しているし、日本の近代史教育のあり方には問題が多いと思うし、「中国崩壊論」も間違いであったと思う。しかし、全体を通してこればかりであると、やはり、坂元先生は、現代中国をいったいどのように見ているのだろうか、という強い疑問を感じざるを得ない。
もしかして、坂元先生は、この巻頭言は多数の会員から共感を得られるはずだと思って書かれたのではないか。実際に、些かの違和感を覚えながらも強く共感した会員はいるであろう。しかし、私はこの違和感を、決して無視できないと思うし、むしろ危機感を持ってとらえている。日本の現代中国研究を代表する研究者が、このような論調の文章を無防備に書くという行為は、日本社会や国際社会における中国研究者の信用を落とすことにさえなりかねない。このままでは、中国研究者の発言は中国当局者や極端な親中論者とされる人々以外、誰からも耳を傾けてもらえなくなってしまわないか。この巻頭言を読んだ若手研究者の中には、「これが日本の中国研究者の標準なんだ」と衝撃を受けた者も必ずいただろうと思う。
ここまで書いて、私は気持ちが重くなった。自分自身の中国との向き合い方にも反省せざるを得ないことが沢山あるからである。いい加減にごまかしたり、見逃したりしてきたことが山ほどある。「忙しいから」、「自分の専門じゃないから」といって逃げてきた。そんな自分に他人を批判する資格があるのか、と。ただ、そういう感情に襲われるからこそ、坂元先生の巻頭言をあえて批判したい。
現中学会70年への「反思」を一切せず、変化する中国と向き合う緊張感を見せることもなく、ひたすら日本社会批判をしているだけの「70周年記念巻頭言」が、現中学会のニューズレターに掲載されたのは、やはり異様だと思う。この巻頭言は、日本社会に巣喰う「中国嫌悪」という霧霾を払いのけたいという「心の欲するところに従うあまり」、バランスのとれたメッセージを発するべきだという「矩を越えてしまった」作品になってしまったのではないか。坂元先生の普段のご研究やご発信の内容や趣旨との差を強く感じ、極めて残念に思う。
2021年8月24日